1920年代は供給側の経済政策によって増加する大衆消費と経済成長の10年間だった。アメリカの戦後かつ進歩主義時代後の政治環境では保守的な共和党政権が3期続いた。3期共に政府と大企業の間の密接な関係を固める中道的姿勢を採った。ウォレン・ハーディング大統領が1921年に就任したとき、国の経済は不況の底にあり、失業率は悪性インフレの後で20%にも達した。ハーディングは国債を減らし、減税し、農産物の利益を守り、移民を制限することを提案した。ハーディングはその実現まで生きてはいなかったが、その政策の大半を議会が通した。これらの政策によりクーリッジ時代の「ブーム」を呼ぶことになった。ハーディングおよびクーリッジ政権が主導権を取った主要な事項の1つは、第一次世界大戦に引き上げられていた富裕者への所得税を元に戻すことだった。金持ちへの重税負担は経済を鈍化させ実際に税収入を減らすものと考えられた。この減税はクーリッジ政権で行われた。さらにクーリッジは、民間企業に政府が介入することを一定して阻止した。
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ハーディングとクーリッジの管理方法で、この10年間の大半を通じて経済成長を持続させたが、この期間の自信過剰が株式市場の崩壊と世界恐慌に繋がる投機バブルを呼んだ。活動主体であるよりも調停者としての政府の役割はハーバート・フーヴァー政権でも続いた。1929年に株式市場が崩壊したとき、フーヴァーの経済問題補佐官アンドリュー・メロンは、それが市場の潜在的に健全な操作だと見なした。フーヴァーは実業家達を協議の場に呼び出し協調させることで危機に反応させるよう働きかけた。移民制限を肯定し、キャピタル・ゲイン課税を削減した。不幸なことに事業をその自助努力で解決させようという試みは事態を改善させなかった。フーヴァーは最後はそれ以上動かそうとし始めたが、当初の流れを止めるための自助努力策は働かなかった。狂騒の20年代の遺産は、指導者達が10年間の終わりに待機していた惨事を予見しそれを防ぐ行動をとるための能力の無さで染められた。